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长宁区十大景色

1. 上海動物園及び沙遜別荘 旧時代の大金持ちのリゾート・今日の渡り鳥中継地

現在の竜柏ホテルの一号楼は、元々20世紀30代上海不動産大王沙遜が建てたリゾート別荘である。全体の別荘はどうやらイギリス田舎別荘のように見える。外形上では分割されてはいるようだが、実際は繋がっている。レイアウトは優雅で気前がよく、なお、各部屋の内部の施設が精緻な材料から作られている。浓荫が覆う日カバーの地に、ブランコ椅子があり、別荘の周りが高い塀で囲われ、独占の私邸となっていて、閑情いっぱいのエレガントである。

 隣にある上海動物園は以前はこの大金持ちの私的ゴルフ場であった。1954年5月25日に、文化休娯楽の公園として公式に開放した。同年の8月に、拡張されて上海動物園となった。現在、園内で飼育されている希少野生動物は620種類以上いて、約6000頭である。動物に適応する生態環境を作るために、園内では大面積の植物は植えられ、10万平米の芝生及び様々の園芸があり、素敵な環境である。それは、騒がしい大都市に幾分の野趣を添える。


入選理由

イギリス田舎別荘風がたっぷり溢れている西洋別荘として、沙遜別荘は上海灘の特別な時期の「十里洋場」を目睹し、現在は近くの上海動物園とともに、上海のブランディング旅行観光地となっている。上海動物園の活気と沙遜別荘の静かさとは、一緒になって調和が取れていて、長寧西郊地区の最も魅力的な風景線となっている。


――長寧区図書館館長湯肖峰氏より


 半世紀以前は、上海は今日ほど繁栄ではなく、今日ほど様々な公園や娯楽施設があるわけではなかった。そのため、その時代に生まれた子供たちにとって、上海動物園という環境がよいところで、仲間と一緒にトンボを捕まえたり、動物を見たり、うれしくてはしゃぎまわっていたりするのは、最高の幸せに違いない。今日になって、既に50歳を過ぎてはいるが、上海動物園にいる自分の姿を回想したら、少年時代に仲間と一緒にはしゃいだりしている時の瞬間は歴然と目の前に見えてくる。すべてのことはまるで昨日発生したばかりのようだ。今は、もう50年も経ってしまった。動物数量といい、動物の種類といい、さらに動物園の緑化環境といい、すべて大いに変わった。一人の長寧人として、もう定年退職して、暇なときは上海動物園へぶらぶらしに来て、上海動物園の当時の美しくて純真な少年の時代を回想し、何十年間において上海の巨大な変化を味わうのだ。


――仙霞住民譚桐増氏より


2. 蘇州河沿岸の景色 波形のガードレールと合わせて、浜河歩道も一つの見所である


 蘇州河の本名は呉淞江という。上海開港後、外国人が船で蘇州まで行くことができると気付いて、英国領事と上海道台と租界拡大協議を締結する時、呉淞江を蘇州河と改称したと言われている。上海の行政区画から見ると、蘇州河は普陀区の東にあり、その西のほうは呉淞江と呼ばれる。

 蘇州河長寧部分の浜江歩道を散歩すると、「この道を歩むと、行き止まりになる。グリーンベルトを歩むと塀に突き当たる。散歩は遠回りになる」と遺憾の意を出す市民はしばしばいる。改造後、長寧路の北側で、浜河歩道を進むと、緑の街道樹は通行人と車道を分離し、歩道と水防壁立面?手すりなどで、美しくて快適な浜河散歩道となり、蘇州河の川辺の独特な景色となっている。


入選理由

長寧だけでなく、普陀区はこの二年間以来、蘇州河にたくさんの工夫をした。これらの工夫その自体はある意味で長寧の独特の景色である。河側のこちらに立っているこそ、対岸の景色をよりよく眺められる。もちろん、長寧の蘇州河景観は同時に対岸の普陀区住民の生活を美化している。


――コミュニティ朝刊ベテラン記者盛豊氏より


近年来、蘇州河両岸の景色は日増しに変わり、至る所では鳥がさえずり花が香る情景が現れ、特に周家橋区域内の蘇州河沿岸の景観で、とりわけ人に新しい目で見させる。

 「橋」だけのことをいえば、東から西へつながる凱旋路の軌道交通河上橋?凱旋路橋?改築中山橋及び内環高架?新築古北路橋?定路橋などは、数年内、その変化はあまりにも大きくて、歴史上にも希に見る。それは両岸の住民の交通方法に大いに力を貢献し、両岸の住民の通勤?生活?交際に便宜を供与する一方、都市の快速路主幹線の開通に基礎を築いた。

 それから「道」の話に入る。蘇州河の川辺に近接している長寧路は、80年代は曲がりくねった細い道路であり、当時の公衆バス54路は、押し寄せている通勤の人群れと自転車の波の間をのろのろ進んだものだ。長寧路両側には、所々粗末なあばら家や危険家屋は見えた。西のほうへ行くと、古北路を過ぎた以降は、公衆バスが通れない狭い歩道の長寧路となった。改築された今日の長寧路は都市快速網の「三縦三横主幹線」の中の東西主幹線の一本にである。道路の両側に何棟もの新型居住ビルが建てられ、住民の居住環境と生活条件は徹底的に改善された。

 最後に「景観」の話をする。以前の蘇州河は、緑地どころか、川水が黒っぽくて臭く、両岸は伝統工業ばかりで、煙突が林立していて、排気ガスのにおいがぷんぷんしたのだ。今は、長年の河道整備?工場移転?緑地育成?環境美化を通し、現在の蘇州河は川水が清くなり、釣りにくる人までも現れ、沿岸の緑地景観は人をうっとりさせるほどで、付近のコミュニテイの住民の最優先の娯楽と活動の最適の場所となった。

 長年周家橋の土地に住んでいる住民として、わたしは蘇州河沿岸の景観の巨大な変化をこの目で見てきて、改革開放して以来周家橋地区の日進月歩の繁栄をこの目で見たんだ。


——周家橋住民趙銀交氏より


3. 虹橋空港 上海空港、未来へ飛ぶ

 上海虹橋空港は上海市の西郊に位置し、市内の中心部から13キロで、長年来ずっと上海空港の代名詞であった。毎日約540便のフライトが離着陸し、ピックアワーは延べ85便離着陸する。年間旅客数は1488.92人で、91の国内外都市とを結んでいる。一方、長寧区は虹橋総合交通中核を利用して発展する物流?企業及び長江デルタ本部の経済企業などを積極的に導入し、周辺地区との機能類似を避けようとしたのだ。ホテル?旅館業と文化娯楽業も積極的に発展し、長寧区の理想の食と宿の環境及び娯楽の環境を作ろうとしている。


入選理由


子供時代から飛行機の記憶は虹橋と繋がり、虹橋ビジネス区の台頭に従い、虹橋という名前により一層深い意味があるようになった

――コミュニティ朝刊ベテラン記者盛豊氏より


僕と虹橋空港の物語というと、4年前の真夏にまでさかのぼることになる。希望校に落ちた僕は意気が消沈して、偶然に「アモイ」の名前は目に入った。すると、僕は航空券の予約をとって、一人でアモイへ行った。

それで始めて虹橋空港へ行ったのだ。浦東空港と比べると、それほど広々として国際化してはいなかった。これはわたしが虹橋空港に対する第一印象である。搭乗券交換?荷物託送?安全検査などの一連の通常手続きを履行した後、待合室で飛行機搭乗の知らせが来るのを待った。10時の飛行機だったが、わたしは7時に既に待合室にいた。心の中の落着かない気持ちで、わたしはなるべく早くこの都市を脱出しようとした。早朝であり、明るくて広々としている待合室?銀灰色の透かし彫りの椅子?薄い色のデザイン、それらのおかげで、わたしは心が沈静した。窓外、飛行場にとまっているずらりと並んでいる飛行機は非常に綺麗な風景になった。時間が一分一秒でたつのにつれて、様々な人は待合室を往来するようになった。ビジネスマンは最後の搭乗時刻に間に合うように小走りに走っていた。恋人同士はいちゃつきふざけていた。3人家族は笑ったり家庭内の話をしたりしていた。飛行機は飛び立ったり、降りたりしていた。その情景はわたしを待合室にいる時期を、搭乗まで楽しませた。

――新泾ホワイトカラー李夢姣氏より


4. 新華路優秀歴史建築群 クリントン上海訪問の第一駅であり、本物の小さい万博


アメリカ大統領のクリントン氏が上海を訪問する当時の第一駅は外灘でもなく、城隍廟でもなく、陸家嘴でもない。それは新華路だ。2000メートルにも足らずこの並木道は何でクリントンを引き付けてご来駕を賜わってもらったのだろう。その一番の原因は恐らく遠くまでその名が知れ渡っている「外国小路」にあるのだろう。

 「外国小路」というのは民間の俗称で、新華路211弄?329弄のことを指す。2本の小路は繋がっていて、英字の「U」字型になっていて、上海で一旦人気の絶頂だったハンガリーの建築士ウデックにより計画?設計された。当時、フランス租界の境界に位置し、静かで地価も安かったので、大金持ち続々とここで不動産を購入したのだ。各種すばらしい建物が残り、今上海ではデザインの種類が最も多い古い別荘群になっている。イギリス風、北ヨーロッパ風、フランスロマンティック風、スタイルが様々である各国の建物はまちまちにこの小さな小路に並んでいる。芸術性からいうと、万博建築博覧群と称される外灘に少しも見劣りがしない。道理で「小世界博覧会」と誉められている。


入選理由


長寧区の東南部のある隅に、50棟の外国風の民間住居があり、その密度の高さは全国に希にみる。「外国小路」を散歩すると、朝、午後、夕方とそれぞれ境地が異なり、唯一の共通点はその静謐さである。ここの植物の何れも東アジア風であるが、建築は典型的な西洋風で、尖っている屋上?アーチ?柱?半円形の瓦は順次でたんたんの木陰に消えたり現れたりするとき、南ヨーロッパや西ヨーロッパ、北ヨーロッパに身を置く気分になる。

――長寧区図書館館長肖峰氏より


 歴史の風貌をなるべく維持するため、上海で永遠に広げない道は64本がある。新華路はそのうちの個性のある1本である。この道は東西で上海では最もにぎやかな大通りを繋ぎる同時に、不思議に独自の静謐さを保っている。ある日偶然そこを通りかかったところ、すっかり好きになった。

 午後の日差しの下で、新華路を歩くと、車が盛んに往来している都市の騒がしさにちっとも感じられない。一瞬、狂騒している心がし静かになってくる。新華路に足を運んで、小路を歩いていると、広いバルコニーや大坂の屋根、高くそびえる煙突、蔦がおい茂っている外壁など、それぞれの風情は地中海風だったり、イギリス風だったり、北ヨーロッパ風だったりして、まるで異国にいるような錯覚がする。とはいえ、それ自体はわざとその気前を示すわけでもない。「江南style」は派手で豪華であるというのなら、新華路は謙虚で悠々としていると言えよう。

――天山住民古葉氏より


5. セントジョンズ大学 アメリカ風の大学名に四合院式建築

 今日の華東政法大学長寧区キャンパスは、本来歴史上有名な教会学校セントジョンズ大学である。19世紀末から20世紀初頭と中ごろまで、アメリカ聖公会は上海で誉れ高い高等教育機関を設立し、1952年に各学部は分離してほかの高等学院に合併された。キャンパスの中の有名な建物「韜奮楼」(原名懐施堂)は1894年1月26日に定礎式が行われた。建築に中国四合院の特色が存在していて、屋上の四角は何れも曲線形である。南のほうの真ん中は、本来の設計図ではタワーだったが、後ほどセントジョンズ大学の科学系主任顧斐徳教授の提案を受け入れて、鐘楼に変更した。鐘はセントジョンズ大学教師と学生の需要を満たす一方、周りの住民にも便宜を供与した。当時では、このビルは中国式学院を創始する建築である一方、教会学校建築の中の最高の校舎でもある。


入選理由

セントジョンズ大学の人文的な意義は、中国教育が近代化過程において、大切な模範とガイド役目を果たし、西洋の近代教育モードを導入し、教育界及び社会に著しい影響を与えたことにある。現代都市の一人として、今の華東政法大学長寧区キャンパスにあるセントジョンズ大学を歩くと、この学校が中国高等教育において不滅の貢献をしたことに感じさせられるだろう。

――長寧区図書館館長肖峰氏より 


 わたしは君の手を引いて、中山公園を出た。真正面に、華東政法大学が見える。華東政法大学というより、セントジョンズ大学だ。

 夏の太陽の光は、古色蒼然としているキャンパスを照らし、靑春の息吹を放った。それは多分わたしたちの青春であり、この静かで優雅な大学にあふれている。日差しがまだらになっている木陰の下で、わたしたちは道中ずっとセントジョンズ大学の美しい建物に感心してならなかった。時間が経っていないように感じ、百年間の優雅の歴史は私たちの目の前で静かに流れていた。指先を絡めて、時間が止まっているようで、移り変わりが激しい歴史の中で、この瞬間は取り上げる価値もない短い一時だ。

 最も奥の庭で、わたしたちは葡萄棚の下に座っていた。そのごろ、上海の空は非常に青く、周りの建築は額縁のように、この美しい一瞬の画面を留めた。相顧みて言も無く、互いにこの美しい雰囲気を壊したくなかった。虫の鳴き声は風にさぁあと鳴っている木の葉に伴奏していた。人間は景色に陶酔しているのか、それとも景色は人間のおかげで美しく見えているのか。これを考える余裕はなかった。真夏の光陰が緩やかに流れ、私たちはこの夏の最も美しい記憶を作った。

 古いものは真に人を感動させるかもしれない。セントジョンズ大学を思い出すたびに君のことを思い出す。道中、わたしはずっと兆豊花園の歴史物語を話していた。君はただ微笑んでわたしを見て聞いてくれただけだった。時間の流れが止まってほしかった。この優雅なキャンパスのように、時間の跡を残さないでほしかった。

 セントジョンズ大学はずっとそこに立っている。一年または一年の真夏の光陰は流れた。君は香港に行ってしまい、わたしは今北京にいる。一緒になれなかった。

――周家橋住民徐子暮氏より


6. 長寧区少年宮 前身は上海灘の豪邸で、今は人材の揺りかごである

 愚園路に位置する長寧区少年宮は1960年に建設され、区内の中学校?小学校?幼稚園教育の活動センター?訓練センター?指導センターである。昔、ここは民国政界要人王伯群の私邸で、上海占領後、汪精衛の官邸となった。この建物はイタリアゴシック様式城で、敷地面積10.78畝(1畝は6.667アールにあたる)で、メインビル面積は2158.8平方メートルで、30万枚の銀貨はかかった。四重の鉄筋コンクリート構造で、様々な大きさの部屋は32室あり、屋内通路は迂回していて、上下は貫通している。部屋及び応接間は全て東方伝統芸術風に飾り付けられていて、室内は彩色上絵を施した壁画のインテリアだ。ドアと窓の取っ手さえ、純度の高い銅の鋳型で製作され、透かし彫りの梅花の連子窓である。園内、緑の木は青々と茂り、四季花が咲き乱れる。当時の上海では珍しい豪邸である。

   


入選理由

昔は豪邸だったが、今日は人材の揺りかごである。かつては汪公館であり、往来していたのは社会名人しかいなく、今日は子供たちの世界になった。これは時代の進歩である。

――上海市長寧区旅行事業管理局弁公室主任応勤勇氏より


少年宮、わたしの少年時代

 もしわたしの小学校時代に縮図を書くとしたら、少年宮はそれの最もよい代表になる。その時の長い小路や古っぽい舞台、消防訓練を行うあの芝生、演出時顔に塗った頬紅などを今でも覚えている。一つ一つ赤い顔は、青春のフィルムの中で最も美しいシーンになった。

 先生が私たちの手を引いて、世の転変を経た小路に入る度に、気持ちはなんだか緊張になる。舞台に立つと、数が数えられない下に座っている先生と仲間の注目を浴びて、幼い私たちは緊張になるのはよくあることだった。演出や試合になると、無理に落着くふりをする私たちは、舞台上で緊張気味に数回もリハーサルした出し物をしている情景はよく見えた。また、授賞の時、胸を張って、自慢して偉そう顔をしているわたしたちの姿にきっと笑い出してしまうだろう。少年宮は私たちにとって人生初の大舞台であり、未来に向いて踏み出した第一歩となり、私たちの夢をスタートしたところである。

今、わたしは少年宮の入り口に立って、奥深い小路に目を向けていたが、その中に足を踏み入れる勇気がない。少年宮のあの古い大講堂は、今の子供たちによりよい環境の中で演出をするために、修繕されただろうかと知りたい。あの暗くて揺らめく明かりやギーギーと音をする床は相変らず記憶のままであるだろうかと知りたい。あの時の記憶だから、昔のままにしておこう。

今のわたしはより大きい舞台に立っている。もう幼い時代には戻ることはできない

――周家橋住民狄笛氏より


7. 宋園 厳かでしめやかで、人に畏敬の念を抱かせるところである

宋園路21号は、すでに他界した国家名誉首席宋慶齢氏の霊園であり、宋園と呼ばれている。解放前は万国墓地と呼ばれたそうだ。1984年1月10日に国の中央の承認を経て「宋慶齢霊園」と名づけられた。園内には、霊園大通り記念碑や記念広場、宋慶齢彫像、墓場、陳列室などからなっている。宋園の周りは松柏類が靑々と茂り、厳粛な雰囲気がする。園内に何千平米の芝生があり、樹齢が300年以上のマキと100年以上のなどのモクレンなど木が育っている。一年中樹木は青々と茂り、四季若草は緑の敷物のようである。宋園では、厳かでしめやかの雰囲気で、環境は静かで美しい。ここに歴史の一頁が書いてあり、偉大な魂が眠っているからだ。


入選理由

ここは厳かでしめやかだけでなく、春風のような快適の雰囲気もある。宋園を通りかかるたびに、敬意を抱くようになる。

――コミュニティ朝刊ベテラン記者盛豊氏より 

 若いころから、宋慶齢氏の一生の実績を記録する本を読んできた。彼女は中国人民の解放事業のために、身を尽くしただけでなく、思いやりがある方で、婦人と児童福祉にも努めていた。その故、あの時から、心の中で、中華民族のこの偉大な女性に感心させられている。いつもチャンスがあれば、ぜひ上海宋慶齢旧居に行ってみたいと思っている。宋園に参拝に行った時、宋園の優雅で奥ゆかしい環境は非常に印象的だった。また、宋園の中に展示されているさまざまな文物例えば宋慶齢の写真や筆跡、コレクションなどを鑑賞した。身をもって、中華民族の一代の英傑の風采を見ることができ、同時に自分の若いころの夢を感じることもできた。

――閘北区住民呉記文氏より


8. 黄金城道 近代的な商店街?国際化コミュニティ

黄金城道は「小さい国連」と俗称されている古北新区に位置し、2008年に建設され、古北新区二期を貫通し、国際的住宅地である一方、歩行者専用ショッピングストリートでもある。店舗は非常に集中していて、飲食?帽子や衣類?贅沢品?不動産仲介など多種の業態があり、古北カルフールスーパーも導入され、総合的な人気商店街とも言えよう。黄金城道さらに、「APM」即ち「24時間営業」という概念を提出した。周りの住民に美しい環境を提供する一方、住民の生活の便利を図ることになる。


入選理由

ハイエンドのルートを歩んでいる黄金城道は周りの商圏ほど人気ではないが、優質で快適なショッピング環境を作っている店舗が少なくない。

――上海市長寧区旅行事業管理局弁公室主任応勤勇氏より


 黄金城道は他の上海街道と比べて、車が往来をする騒々しさがなく、週末に子供さんをつれてぶらぶらしたり、何人かの友達と道端のパン屋や喫茶店で話し合いをしたりするのにふさわしいところだ。また、黄金城道では、常にさまざまなイベントが行われ、中心広場には噴水がよく見える。上海万博期間中に、各大学から来た大学生はが中心広場で演出をしたのはその一例である。夏の夜、長寧区はよく黄金城道で様々なコンサートが開催され、そのお陰でわたしも時々耳で楽しむことができる。総じていえば、黄金城道はは環境が静かで快適であり、リラックスや娯楽のいいところだと思われる。

――虹口住民万瑾氏より

 

9. 紅坊 工業と現代的芸術の融合で、創意設計園区を作る


紅坊は准海路のはずれに位置し、上海では最も早い創意設計園区の一つであり、上鋼十廠(上鋼第10工場鋼板圧延工場)の工場から改造されたそうだ。古い工業建築の鉄筋を利用して、工場の広い空間と骨組構造などの特色を現代建築芸術を合わせて、古い建築の元来の歴史の経緯を受け継ぎ、元々の生態感覚を保つ一方、通風や安全などに細かく手を加えて、新空間と旧空間を互いに融合?流動?自然に遷移するようにさせ、総合的カルチャーセンターを作った。上海都市彫刻芸術センターが主体で、多機能のミーティングエリア?イベント及び芸術展覧会場?多機能創意場所など融通がきく空間応用もある。


入選理由

改造時から、関心を寄せたのだ。朝刊が主催した九省市芸術展示会もここで行った。最も人をひきつけたのは、鉄鋼工業の原始的感覚をありのままでとどめていることだと個人的に考える。例えば、製鋼工場により改造された展示ホールなど。

――コミュニティ朝刊ベテラン記者盛豊氏より


 わたしと上海との物語は紅坊に足を運んだあの瞬間からスタートしたのだと思っている。大学に入る前、この都市についてあまりにも多くの連想と恐慌を覚えていたが、それは大抵あれらの奇妙な描写や車が往来するせわしさから得たものだった。大学一年生前学期のとき、長年あるバンドに夢中になっていたため、初めて紅坊に足を踏み入れた。初めてこの都市を危惧する気持ちから脱出し、この都市の生活ととけあった。赤煉瓦の古い工場は糸が切れた時のように黙って謎のようで、また芸術の名で生まれ変わり、粗末だが元気よく伸びてくる。あの時、よく友達と長時間をかけて地下鉄でlivehouseにかけつけ、静かな民謡で伴奏する歌や盛大なギターの音楽を聞いたものだ。あのときこそ、生活は手を伸ばして、異郷にいる私を抱いてくれたようだ。コンサートが終わった時、長寧区全体は既に眠っていた。目を覚めているのはわたしだけで、道中ずっと黙ったり、声が高く歌ったりしたものだ。彫刻とか音楽?絵とか、それは紅坊の物語だ。光陰の奥にあるわたしちの記憶でもある。一緒にコンサートに行く友達は今はみんなばらばらになり、わたしも既にこの年と馴染んできた。しかし、一緒に遊んだあの時をしょっちゅう思い出すものだ。あの時、太陽の光は丁度よく、古い赤煉瓦は謎のように黙り込んでいて、わたしたちは長寧という付注を歩いていた。この付注は紅坊という。

――華東政法大学学生王思斉氏より


10. 中山公园商圈:城市中的栖息地,商业中的购物天堂

  中山公園はもともとは旧上海不動産豪商霍格の私家園林であった。1914年に租界公園に改築され、今は、大樹?芝生?山林?水面などの自然景色を特色とし、中西の庭園の文化は互いに融合し、深い歴史的文化内包を含んでいる都市庭園になった。現在、中山公園はむしろ都市の商業的ランドマークの一つとして存在していると言える。軌道交通一号線?三号線?四号線は毎日30万人以上のひとの流れを運んでくれる。パリの春やローズ坊商店街?龍の夢ショッピングセンター?この間オープンした愛室麗家具?光一百貨などのおかげで、ここはショッピング天国になった。


入選理由

中山公園は長寧区の政治?文化?商業中心であり、上海の西部にある人の流れの集散地の一つでもある。中山公園をめぐって形成した老舗の商業形態が集まる場所は、長寧区商業と貿易の発展の三大重点地域の一つでもあり、長寧区が「商業?旅行業?文化産業」の一体化サービス機能がますます効き、長寧区内で最も人気のあるランドマークになる。

――長寧区図書館館長肖峰氏より


幼いときは、中山公園に対する印象は南京路から20路電車に乗ったら、長時間が経ってから初めて到着するところだと覚えていた。どうしても遠いところだと思ったが、今わたしは大きくなった。上海もずいぶん大きくなった。華東師範大学で四年間勉強して、幼いときは遠くて遠くて届かないところのように思ったところは毎週必ず行くところとなった。

以前学校の中でうわさになっていた「華東師範大学では必ずやる100のこと」は、その一つは「学校から中山公園まで歩くこと」である。大学一年生のとき、わたしは真に一回このように歩いてみた。半時間以上歩いた。そのせいか、腰はだるくて背中は痛かった。それから、龍の夢でコーヒーを飲んで67路バスで黙々と学校へ帰った。

大学一年生のとき、もうひとつの面白いことも中山公園とかかわりがある。その時、撮影の授業があり、先生は何度かの外出取材の授業を指定したが、そのうちの一つは中山公園であった。初回は雨で行けなかった。次回になったら、また天候が悪かった。結局課程のスケジュールにあわなそうになった。先生は今回は風が吹こうと雨が降ろうと、必ずいくと話をした。結局、三回目は最初は天気がよかったが、後ほど雨が降り出し、みんなはローズ坊にあるケンタッキの二階に篭って、通行人が急いで雨宿りをするシーンを撮っただけとなった。

――華東師範大学卒業生崔大成氏より